7,8年前、(もちろんコロナ禍前)、飯田町のスナックに寺家の若い衆4人ぐらいで行った。
先客に飯田町の30,40代女性3,4人がいた。
話しかけてきた。
そのうち、「寺家」と分かると、
「寺家はキリコがデカいと言っても、タイヤが付いているから山車ではないか」と小バカにしたような顔で言ってきた。
【例の柳田村の男性の親戚かもしれない】
彼女の言い分では、
「飯田の燈籠山は山車だからタイヤがあっても良いらしい」
そこで、私は、
「キリコというのは心意気である。担いで心意気を示す地区もあれば、【日本一のデカさ、美しさ】で心意気を示す寺家のような地区もある」と答えた。
納得してくれたかは分からない。
家に帰ってから気付いたが、飯田の春日神社の例祭は9月20日である(7月20日は例祭ではない)。
その際、【飯田町は、タイヤ付キリコ】を出している(寺家に比べてかなり小さい)。
矛盾を感じないのだろうか?
その場で、伝える事が出来ていれば、ぐうの音も出なかっただろう。
それよりも、残念だったのは、一緒にいた「寺家の若い衆」が黙っていたことだ。
完全に存在感を消していた。
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